5分でわかる!北条高時の時代
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この動画の要点まとめ
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朝廷で持明院統と大覚寺統が皇位を巡って争った
まず、この頃の朝廷(京都)の動きを見ていきましょう。
後嵯峨法皇の死後、次の皇位を巡って朝廷内で後深草天皇(ごふかくさてんのう)と亀山天皇(かめやまてんのう)が対立します。
後深草天皇は 長講堂領 という荘園群を財源とする 持明院統 (じみょういんとう)という系統の天皇です。
一方、亀山天皇は 八条(女)院領 という荘園群を財源にしていた 大覚寺統 (だいかくじとう)という系統の天皇でした。
朝廷の争いに対して、鎌倉幕府が仲介に入った
この対立は収拾がつかなくなり、 京都の対立に鎌倉の幕府が仲介に入る ことになります。
これが、文保の和談(ぶんぽうのわだん)です。
大覚寺統と持明院統の天皇が交互に皇位につく 両統迭立 (りょうとうてつりつ)が定められます。
そしてまずは、大覚寺統の 後醍醐天皇 (ごだいごてんのう)が即位しました。
北条高時は政治に興味がなかった
このころの得宗は 北条高時 でしたが、政治に興味がなく、趣味に傾倒していました。
そこで、内管領の長崎高資(ながさきたかすけ)が実権を掌握していました。
内管領は、得宗と主従関係を結んだ御内人たちのトップです。
しかし、実際には幕府がしっかりと政治を行っていたわけではありませんでした。
後醍醐天皇の倒幕計画
世の中では、まともな政治を行っていなかった幕府への不満が次第に募っていきます。
これに乗じるように、 後醍醐天皇 が倒幕計画を打ち立てます。
しかしながら1331年、計画がばれてしまい、幕府に捕らえられ、隠岐に配流されてしまいます。これが元弘の変です。
ちなみに、隠岐は現在の島根県にあり、後鳥羽上皇が承久の乱で流された場所でもありましたね。
倒幕のため、各地で武士たちが立ち上がった
後醍醐天皇は隠岐に流されてしまいましたが、これをきっかけに、幕府に不満を持つ人たちが各地で立ち上がります。
まず、 楠木正成 (くすのきまさしげ)が 河内 (かわち、現在の大阪府)で挙兵します。
その後、後醍醐天皇も隠岐を脱出し、それを受けて 足利尊氏 (あしかがたかうじ)や新田義貞(にったよしさだ)らも相次いで幕府に反旗を翻しました。
足利尊氏が六波羅探題を攻め落とす など各地で幕府への攻勢が続き、 新田義貞が鎌倉を攻め落とした ことで、 1333年 、鎌倉幕府は滅亡しました。
足利尊氏や新田義貞は、源頼朝と同じように源氏の血を引いた一族でした。
その源氏の人たちが、北条氏を倒して幕府を滅亡させることになったのです。
ちなみにこの時、足利尊氏は名前に「高氏」という違う漢字を使っていましたが、テストで書くときにはどちらでもかまいません。
学校で習ったように書くようにしましょう。
ここから時代は飛んで、鎌倉幕府の滅亡まで話を進めます。
最後の得宗、 北条高時 (ほうじょうたかとき)の時代です。