5分でわかる!足利尊氏の時代
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この動画の要点まとめ
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北朝内部で殺し合いの大喧嘩 観応の擾乱
天皇が南北朝に分裂したあと、足利尊氏は1338年に、自分が擁立した北朝の光明天皇から、征夷大将軍に任命されます。
一方、南朝の後醍醐天皇は1339年に亡くなりますが、その後、後村上天皇が後を継ぎ、南朝も継続して続いていきます。
そんな中、北朝内部で、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と呼ばれる権力争いが起こります。
この頃、軍事権を握っていたのは、尊氏自身とその補佐であった高師直(こうのもろなお)の2人でした。
この2人と、尊氏が政治を任せていた弟の足利直義(あしかがただよし)が対立し、激しい争いを繰り広げました。
最後には、尊氏が直義を毒殺することで観応の擾乱が幕を閉じます。
このように、南朝の重要人物が亡くなる中で、北朝内部でも争いを続けていたため、南北朝の動乱はなかなか収まりませんでした。
尊氏の守護懐柔策、半済令
尊氏は、北朝内部の紛争で武士への求心力が落ちることを危惧しました。
そこで、観応の擾乱のさなか、守護に荘園領主の年貢の半分を与える半済令を出します。
この半済令について、図を見ながら理解していきましょう。
まず、土地から米が取れて、400の米が税金として納められたとしましょう。
例えば、今まで地頭は自分の取り分として200取り、残りの200を荘園領主に渡していたりしました。
しかし半済令が出されたことで、荘園領主の取り分が半分の100に減り、その分が守護の元に収められるようになりました。
鎌倉時代の守護は、兼務する地頭としての収入しかありませんでしたが、半済令によって、守護自身が収入を得られるようになったのです。
これは、室町時代になって守護が力をつける、その大きなきっかけの一つになりました。
南朝の正当性を主張した北畠親房が亡くなった
一方、南朝では、重要人物の北畠親房(きたばたけちかふさ)が亡くなります。
北畠親房は、『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)を著して、南朝の正統性を主張した人物です。
その後、足利尊氏も1358年に亡くなり、将軍職は次の足利義詮(あしかがよしあきら)に引き継がれますが、南北朝の動乱は続いていくことになります。
このポイントでは、南朝と北朝の対立が続く中で、政治がどうなっていくのか、見ていきましょう。
足利尊氏が征夷大将軍となり、室町幕府を開いた、そんな頃の内容について、見ていきましょう。