高校日本史B
5分でわかる!足利義教の時代
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この動画の要点まとめ
ポイント
足利義教の時代
これでわかる!
ポイントの解説授業
義教は、他にも将軍候補がいた中で、くじ引きによって就任が決まった将軍です。
そして義教は、他の将軍候補のこともあったのか、「万人恐怖」と呼ばれる政治を行いました。
そのため、争乱や一揆が多く起こった時代となります。
守護の国外退去を求めた播磨の土一揆が起きた
正長の土一揆の翌年、1429年に、 播磨の土一揆 (はりまのどいっき)が起きます。
徳政令を求めた正長の土一揆とは異なり、播磨国の守護であった赤松氏の国外退去を要求する一揆でした。
最終的に、守護の 赤松満祐 (あかまつみつすけ)が一揆を鎮圧し、国外退去の要求は失敗に終わっています。
義教が永享の乱で、鎌倉公方の足利持氏を滅ぼした
1438年、 永享の乱 (えいきょうのらん)という争乱が起こります。
この頃、鎌倉府のNo.1である鎌倉公方の 足利持氏 (あしかがもちうじ)と、No.2である関東管領の 上杉憲実 (うえすぎのりざね)の対立が深まっていました。
足利義教がこの対立に乗じて、自分のいうことをあまり聞かない足利持氏を滅ぼした、という争乱です。
やりすぎた義教! 赤松満祐に謀殺された
「万人恐怖」と呼ばれた政治によって反発を招いた結果、義教は 赤松満祐 によって殺されてしまいます。
これが1444年に起きた 嘉吉の乱 (かきつのらん)です。
赤松満祐は、播磨の土一揆で国外退去を要求された守護でもありましたね。
この嘉吉の乱をきっかけに、「代始めの徳政」を要求して、 嘉吉の土一揆 (かきつのどいっき)が起きました。
「代初めの徳政」とはつまり、「新しい将軍の時代になったのだから、古い時代の借金は帳消しにして!」という要求です。
これを受けて幕府は、初めて 一揆の要求に応じた徳政令を出します 。
正長の土一揆では出されなかった徳政令が、ここで出されることになりました。
3代将軍足利義満から少し時代を飛ばして、次は6代将軍 足利義教 (あしかがよしのり)の時代を見ていきます。