5分でわかる!足利義政の時代(応仁の乱)
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関東地方は大荒れ! 鎌倉公方も関東管領も分裂し、激しく対立
8代将軍足利義政は銀閣寺を建立したことで有名ですが、政治には興味が薄かったためその時代も荒れています。
この頃、 鎌倉では、鎌倉公方が分裂し、鎌倉から離れたところで対立 していました。
まず、永享の乱で足利持氏が滅ぼされた後、誰が鎌倉公方になるかで争いが起こります。
その中で、足利義教の子である足利政和(あしかがまさとも)と足利持氏の子である足利成氏(あしかがしげうじ)が対立していました。
しかし、二人とも鎌倉での争いが激しすぎて鎌倉自体には入れず、政和は伊豆に、成氏は下総に拠点を置きます。
その拠点の場所から、政和は 堀越公方 (ほりごえくぼう)、成氏は 古河公方 (こがくぼう)と呼ばれていました。
その鎌倉では、 関東管領を継いでいた上杉氏も分裂し、対立していました 。
扇谷上杉氏と山内上杉氏に分かれて激しく争っていたのです。
このように、関東では一足早く、戦国時代が始まっていました。
大戦乱であった応仁の乱を経て、戦国時代が始まる
そんな中、京都を発端として、大きな戦乱が起こります。
1467年 から1477年まで、11年続く 応仁の乱 (応仁・文明の乱)です。
西軍のトップである 山名持豊 (やまなもちとよ)、東軍のトップである 細川勝元 (ほそかわかつもと)のもと、将軍の跡継ぎ争いや、斯波氏や畠山氏の相続争いなどが複雑に絡み合い、大戦乱となりました。
ちなみに、足利義尚(あしかがよしひさ)と足利義視(あしかがよしみ)による将軍の相続争いも絡んでいましたが、この二人は東軍・西軍が途中で入れ替わります。
そのため、どっちがどっちの軍についていたか、は気にしなくてかまいません。
この応仁の乱は、結局どちらが勝った、ということもなく和睦が結ばれ、戦乱のあとだけを残して終わります。
この室町時代最大の戦乱を経て、京都は焼け野原になり、京都の将軍も管領家も力を失います。
そして、代わりに各地方で戦国大名が力をつけ、以後、戦国時代が始まっていくことになります。
今回は、8代将軍 足利義政 (あしかがよしまさ)の時代に起きた 応仁の乱 (おうにんのらん)と、それ以後の混乱の時代について見ていきましょう。
まずは、応仁の乱が起きた足利義政の時代について見ていきます。