高校日本史B
5分でわかる!全国への進出
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ポイント
秀吉の統一事業
これでわかる!
ポイントの解説授業
山崎の戦いで信長の敵を取り、賤ヶ岳の戦いで影響力を強める
信長が自刃した本能寺の変が起こった時、 秀吉は中国の毛利氏と戦っていました 。
戦いの最中に信長の訃報を受けた秀吉は、毛利に信長の死を悟られないよう素早く講和を結び、急いで京都に戻ります。
信長の家臣の中で誰よりも早く戻った秀吉は、本能寺の変を起こした明智光秀と戦います。
これが、1582年に起きた 山崎の戦い です。
山崎の戦いで光秀を破ったことで、 秀吉は信長の跡を継ぐ人物としてアピールすることに成功しました 。
しかし、信長に仕えていた、秀吉より格上の部下はこれを面白く思いませんでした。
その中でも筆頭格である 柴田勝家 (しばたかついえ)と、秀吉は1583年に 賤ヶ岳の戦い (しずがたけのたたかい)で争い、これに勝利します。
賤ヶ岳の戦いの勝利は、秀吉の影響力を更に強めました。
大坂城を建築し始め、徳川家康と戦う
賤ヶ岳の戦いと同年の1583年、秀吉は石山本願寺の跡地に 大坂城 を築城し始めました。
石山本願寺は一向宗が11年にも渡って信長と争った場所で、非常に攻めづらい土地です。
今の地名である「大阪」(こざとへんの阪)ではなく「大坂」(つちへんの坂)である点に注意しましょう。
秀吉に反発したのは織田家の家臣だけではありません。
信長と同盟を結んでいた 徳川家康 が、信長の次男である信雄を立てて秀吉と戦います。
これが、小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)です。
この戦いは秀吉と家康の講和に終わりました。
この戦いのあと、秀吉が織田信長の跡継ぎとして落ち着くようになっていきます。
織田信長 が 本能寺の変 で討たれた後、天下統一を果たしたのは誰だったでしょうか。
そう、皆さんも知ってる 豊臣秀吉 (とよとみひでよし)です。
今回は、豊臣秀吉が日本全国を手中に収めるまでの流れについて、扱っていきます。