高校日本史B
5分でわかる!朝廷権威の利用と西の平定
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この動画の要点まとめ
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朝廷権威の利用と西の平定
これでわかる!
ポイントの解説授業
ここから秀吉は、さらに権力を強め、未だ従っていない地域を制圧していくことになります。
関白に就任し、戦争禁止令である惣無事令を出す
秀吉は1585年に 関白 に就任しました。
関白の地位に就いた秀吉は、自身の許可のない戦争を禁止する 惣無事令 (そうぶじれい)を発布します。
この惣無事令は、戦国時代の分国法などに書かれた「喧嘩両成敗」の系譜を継いだもの、としても試験に出されます。
秀吉の配下は秀吉の許可なく戦争してはいけない、ということです。
(実際に権力があるかはともかく、)日本のトップである天皇の代理である「関白」、そしてこの後「太政大臣」の地位を得る秀吉にとって、日本全国の大名は皆「配下」ともいえます。
そのため、この 惣無事令を戦いの大義名分として、「戦争禁止令違反」という形で、従わない大名を平定していく ことになるのです。
西の大名を平定し、太政大臣にも就任
そして秀吉は、この後実際に、自身に従わない大名を順に攻め、次々と平定していきます。
まずは西のほうから、1585年には 四国の長宗我部元親 (ちょうそかべもとちか)を、1587年には 九州の島津義久 (しまづよしひさ)を破っています。
これによって、 四国と九州が秀吉の支配下となりました 。
四国平定と九州平定の間にあたる1586年には、朝廷から 太政大臣 の地位と豊臣の姓を賜り、朝廷の権威によってますます力を伸ばしていきます。
ちなみに、秀吉はこの時まで、「羽柴秀吉」という名でした。
このときに豊臣の姓を得たことで、後々「豊臣秀吉」とも呼ばれるようになりました。
信長の後を継いだ秀吉ですが、全国を見ればまだ秀吉に従わない大名は多くいました。
西には 四国 の長宗我部氏、 九州 の島津氏。
東には 小田原 の北条氏、 東北 の伊達氏などです。