5分でわかる!太閤検地(2)
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この動画の要点まとめ
ポイント
容積の単位で収穫高を表す石高制を採用した
秀吉は、土地から採れる米の単位を、従来の貫高制(かんだかせい)から 石高制 に変えました。
以前に使われていた貫高制の「貫」は、お金の単位です。
つまり、 貫高制は、「土地から取れる米をお金に交換した額」で土地の収穫高を表す制度 でした。
いっぽう、新しい石高制の「石」は、容積・体積の単位です。今で言う、「リットル」のような単位です。
つまり、 石高制は、「米が収穫できる量そのもの」で土地の収穫高を表す制度 です。
お金の単位から、容積の単位に変わった、ということ です。
あなたの土地はこのくらい! シンプルに収穫高を決めてしまう「石高」
では、 土地の収穫高は、どのように決められていたのでしょうか 。
本来であれば、米の収穫高は、天気の都合や水不足などで豊作・凶作があり、毎年変わります。
しかし、 毎年調査するのは大変で、いくつかの基準を設けて、「あなたの土地の収穫高はこれくらい」と決めてしまいました 。
それが、 収穫高を表す「石高」 (こくだか)というものです。
石高は、土地の面積×石盛(1段あたりの標準収穫高)で計算されます 。
「1段」とは、先ほどのポイントにも出てきたとおり、「広さの単位」です。
つまり、 「1段という広さの土地からは、これくらいの量の米が取れる」と予め決めておき、土地の広さをかけることで、収穫高を決める 、という方法です。
この石盛は、土地の等級によって4段階に分けられました。
上田・中田・下田・下々田(じょうでん・ちゅうでん・げでん・げげでん)という4つの等級です。
この 等級に応じて収穫高を設定することで計算を簡単にして います。
この石盛(土地の等級)は、太閤検地で派遣された役人がそれぞれの土地に振り分けていきました。
例えば、「10段の広さの土地」が「上田」と認定された場合を考えましょう。
上の表から、上田の石盛は「1石5斗」です。1石は10斗なので、「1.5石」ともいえます。
石高は、土地の面積×石盛で計算される ので、この土地の石高は「1.5石×10段=15石」と決められるのです。
年貢が高くて一揆を誘発! 対抗策でも合った刀狩令
こうして計算された石高(つまり収穫高)に応じて年貢が課されることになりました 。
その年貢の割合は二公一民、つまり 石高の2/3が年貢として徴収されるという高い年貢率 でした。
例えば、上の例で「15石」という石高の土地であれば、税金は2/3の「10石」だったわけです。
このように年貢率が高かったため、各地で一揆を誘発します。
秀吉は、この 一揆を防ぐため、以前に学んだ「刀狩令」を出して農民から武器を取り上げた のです。
一地一作人の原則
以前の土地制度では、荘園制が採用され、土地を耕作する人と所有権を持つ人が異なったり、一人が大量の土地を所有し、小作人に耕作を任せたりしていました。
太閤検地では、土地を耕作する民自身を 検地帳 (けんちちょう)に登録し、年貢を直接耕作民から徴収する、という原則を作りました。
これが、 一地一作人の原則 です。
荘園制では、一つの土地に関わる人が複数いました。
しかし、検地帳に「一つの土地には一人」のみ記録しました。
そのため、 太閤検地によって、荘園制が崩壊することになりました 。
荘園制は、はるか昔、奈良時代に初期荘園が生まれてからずっと続いていました。
荘園とは、私有地のことです。
つまり、 秀吉の太閤検地によって、全国の私有地がなくなり、「全ての土地は秀吉のもの」となった のです。
ちなみに、太閤検地は、天正という年号の時に新たに石高制を採用したことから、 天正の石直し (てんしょうのこくなおし)とも呼ばれます。
豊臣秀吉は、 太閤検地 で役人を派遣して直接検地を実施し、単位も統一し、不正を防ぎ、年貢の計算を容易にしました。
更に、土地だけではなく、米の単位にも同様のことをします。
ここでは、 石高制 (こくだかせい)と 一地一作人の原則 (いっちいっさくにんのげんそく)について学んでいきましょう。
特に石高制は、少し理解しにくいかもしれませんが、大切なところなので、繰り返し読んで、動画も見て、学んでください。