5分でわかる!家康と秀忠の外交
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この動画の要点まとめ
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己酉約条で朝鮮と仲直りし、朝鮮から通信使が来て国交回復
豊臣秀吉の朝鮮出兵以来、日本と朝鮮の関係は途絶えていました。
1607年から、朝鮮より (朝鮮)通信使 ((ちょうせん)つうしんし)が来日します。
なお、正確には最初の3回は「回答兼刷還使」という少し違う名前の使節で、朝鮮出兵の際に日本が捕らえた朝鮮人捕虜の返還を目的としていました。
1609年には朝鮮と対馬の宗氏の間で 己酉約条 (きゆうやくじょう)という通商条約が結ばれ、 朝鮮との外交が再開されました 。
朝鮮出兵に関する仲直りの条約ですが、 幕府と朝鮮が直接結んだものではなく、間に対馬の宗氏を挟んでいる ことに注意してください。
島津氏が琉球を征服し、琉球から慶賀使・謝恩使が送られる
朝鮮とは平等な関係を築いた江戸幕府ですが、琉球には服属を要求します。
1609年に 薩摩の島津家久(しまづいえひさ)が琉球を征服し、以後、琉球から日本に使節が来日する ようになります。
江戸幕府の将軍が交代した時に 慶賀使 (けいがし)が、琉球王国交代ごとに 謝恩使 (しゃおんし)が琉球から送られました。
将軍の交代を祝い、琉球の国王となったことを感謝するということから、幕府と琉球の力関係が分かります。
伊達政宗が外交を求めてイスパニアに慶長遣欧使節を派遣
外交を行ったのは江戸幕府だけではありません。
1613年、仙台藩主の伊達政宗(だてまさむね)は、藩士である支倉常長(はせくらつねなが)らをイスパニア(スペイン)へ派遣しました。
これが、 慶長遣欧使節 (けいちょうけんおうしせつ)です。
政宗の目的はイスパニアと直接、貿易を行うことでした。
しかし、イスパニアの国王と直接関係を持つことは出来ず、失敗に終わっています。
この「慶長遣欧使節」は、 九州のキリシタン大名たちによって4人の少年使節がローマ教皇のもとに派遣された「天正遣欧使節」と間違えやすい ので、しっかりと区別しておきましょう。
幕府は禁教令を出してキリスト教を徹底弾圧
江戸幕府は、キリスト教に対して厳しい姿勢を取ります 。
1612年には直轄領である天領(幕領)にキリスト教を禁止する 禁教令 (きんきょうれい)を出し、翌年には禁教令の範囲を全国に広げています。
また、1614年にはキリシタン大名である高山右近(たかやまうこん)らを国外追放処分にするなど、上下問わずキリシタンを徹底的に排除しようとしました。
今回は、徳川家康から生前に将軍職を譲られた秀忠が、大御所である家康と共に、どのような政治を行ったのかを見ていきます。
将軍は秀忠ですが、家康も駿府から大御所として政治を動かしていたため、2人の政治、ということになります。
まずは、外交から見ていきましょう。