5分でわかる!家康と秀忠の大名統制
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この動画の要点まとめ
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大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、平和宣言を出す
徳川家康は、関ヶ原の戦いで西軍に味方した大名の領地に対して厳しく当たり、領地の取り上げなどを行いました。
これに不満をもった大名たちが、 豊臣秀吉の息子である豊臣秀頼(とよとみひでより)を担いで江戸幕府と戦います 。
何度か戦った後、 大坂夏の陣 (おおさかなつのじん)で豊臣秀頼が自刃し、豊臣氏は滅亡します。
これで 家康は、生きているうちに、大きな敵対勢力を潰すことに成功しました 。
そして、大坂夏の陣の後、幕府は元和偃武(げんなえんぶ)の宣言を出します。
元和とは新しい年号のこと、偃武とは「武力を嫌う」という意味で、いわば、幕府からの戦争禁止令のようなものでした。
一国一城令や武家諸法度元和令というルールを定めた
江戸幕府の大名統制政策の1つが、1615年に出された 一国一城令 (いっこくいちじょうれい)です。
一人の大名の領地には城を1つしか認めず、その他の城を破却させました。
大名が幕府に逆らった時、城が複数あると攻めづらいことから、事前に城を取り除いておく ための命令でした。
同じく1615年には、 崇伝 (すうでん)が起草した 武家諸法度元和令 (ぶけしょはっとげんなれい)が発布されました。
武家諸法度はこの後、将軍が変わる度など、何回も出されます。
そのため、 一番最初の武家諸法度がこの「元和令」だった 、ということをしっかりと押さえておきましょう。
この武家諸法度元和令では、大名同士の同盟や・私婚(幕府の許可のない結婚)、城の無断修築・新築が禁止されました。
ルールに従わない大名には罰を与える
武家諸法度元和令に背いたり、幕府に逆らった大名には様々な罰が下されました 。
土地を取り上げて大名の家を取り潰す 改易 (かいえき)が一番厳しい罰です。
他にも、領地を強制的に移す 転封 (てんぽう)、領地を減らす 減封 (げんぽう)などがありました。
このように、ライバルを潰して平和宣言を出し、武家諸法度元和令というルールを決めて、ルールを守らない時には罰を与えて、大名たちを支配していったのです。
再び国内に目を向けて、徳川家康と秀忠が、大名たちをどう支配していったのか、ということについて見ていきましょう。