高校日本史B
5分でわかる!家康と秀忠の朝廷・寺院統制と家康の死後
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この動画の要点まとめ
ポイント
徳川家康・秀忠の時代―朝廷・寺院統制とその他―
これでわかる!
ポイントの解説授業
禁中ならびに公家諸法度で朝廷・貴族を統制
武士に対して厳しい統制を敷いた江戸幕府は、朝廷や貴族にも同様の姿勢で臨みます。
武家諸法度元和令と同じ年に、朝廷・貴族の統制令である 禁中並公家諸法度 (きんちゅうならびにくげしょはっと)を発布しました。
禁中並公家諸法度を起草したのは、武家諸法度元和令と同じく 崇伝 です。
また、 朝廷(天皇)の直轄地である禁裏御料(きんりごりょう)はわずか1万石まで減らされ、朝廷は大きく弱体化 しました。
後に3万石に増えたりと変遷はしますが、幕府の直轄地である天領が約400万石だったことを考えると、とても少なかったことがわかると思います。
またもや崇伝起草の寺院法度で寺院も統制
幕府はさらに各宗派に寺院法度(じいんはっと)を発布し、 寺院統制にも乗り出しています 。
寺院法度は諸宗諸本山法度とも呼ばれます。
この寺院法度も、崇伝の起草によるものです。
家康が亡くなるが、幕府の統制はしっかりと続けられていく
1616年に、家康が亡くなります。
ライバルを潰し終え、大名・朝廷・寺院の全てを統制し、将軍の跡継ぎもしっかり育った状態にして、幕府を安定させてから亡くなっていきました 。
家康の没後も、1619年に広島城を無断修築した福島正則が改易されたり、
1622年に55名のキリスト教宣教師・信者が殉教する元和の大殉教が起こったりと、
幕府による厳しい統制はしっかりと続けられていくことになりました 。
最後に、朝廷や寺院に対してどういう態度を取っていたか、ということなどについて、見ていきましょう。