5分でわかる!家光の政治
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この動画の要点まとめ
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秀忠が大御所として力を持ち、紫衣事件で朝廷にも力を示す
1623年、徳川秀忠は 将軍職を子の徳川家光に譲り、大御所となります 。
秀忠は1632年に死去するまで大御所として力を持ち、国内外問わず宗教に厳しい姿勢で統治を行います。
1627年には 紫衣事件 (しえじけん)が起こりました。
紫衣とは、寺の僧の衣装である袈裟(けさ)の中でも、最高位の僧にのみ与えられる衣装です。
この紫衣を与えるためには、天皇の勅許(許可)が必要でした。
しかし大御所の秀忠は、 後水尾天皇 (ごみずのおてんのう)が与えた紫衣の勅許を、「幕府の許可を得ていない」ことを理由に無効とします。
そして、抗議した僧 沢庵 (たくあん)を流罪に処しました。
これに怒った後水尾天皇は、娘の明正天皇(めいしょうてんのう)に譲位してしまいます。
天皇を辞めるくらいしか、幕府に反抗できる方法がなかったのです。
ちなみに明正天皇は、奈良時代以来、ひさびさの女帝です。
自ら撤退したイギリスと、幕府が禁止したイスパニアの違いが大切
少しさかのぼって、秀忠の譲位と同じ1623年、 イギリスが貿易競争に敗れ、自ら日本から撤退 します。
その翌年には、 幕府がイスパニア船の来航を禁止 しました。
この2つのできごとは、「相手との貿易が終わった」ことは一緒ですが、性質は全く異なります。
イギリスは、オランダと共に「紅毛人」と呼ばれ、キリスト教の布教には熱心ではありませんでした 。
一方、 イスパニアはスペインと共に「南蛮人」と呼ばれ、キリスト教の布教にとても熱心でした 。
幕府はキリスト教の布教をしてほしくありませんでした。
そのため、 イギリスはあくまで貿易競争で敗れて自ら撤退、という形でしたが、イスパニアは幕府が来航することを禁止した 、という違いがあるのです。
キリスト教を禁止するため、絵踏で隠れキリシタンを捜索
幕府は禁教令を全国に出していましたが、まだ国内に隠れキリシタンがいました。
そこで 隠れキリシタンを探すため に、イエス=キリストや、聖母マリアの姿を彫った踏絵(ふみえ)を使い、踏めない者を処罰するという方策が採られました。
これを 絵踏 (えふみ)といいます。
今回は、 徳川家光 (とくがわいえみつ)が将軍になってから、 鎖国 (さこく)が完成するまでの流れについて一気に学びます。
まずは、その鎖国政策が始まる少し前、家光が将軍になってどのようなことが起きたか、見ていくことにしましょう。