5分でわかる!鎖国政策
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この動画の要点まとめ
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ちなみに、海外との関係を断つ鎖国という政策は有名ですが、江戸時代の当時から鎖国と言われていたわけではありません。
何度か「鎖国令」という単語が出てきますが、後から一連の政策をまとめて「鎖国令」と呼ぶようになりました。
具体的な政策の中身が重要 ですから、丁寧に見ていきましょう。
鎖国にいたるまでの流れ、奉書船制度と3つの鎖国令を押さえよう
1631年、幕府は 奉書船制度 (ほうしょせんせいど)を出しました。
海外渡航船に、 従来の朱印状に加えて、老中が発行する老中奉書(ろうじゅうほうしょ)の所持を義務付ける 制度です。
朱印状は発行が容易でしたが、老中奉書は老中直々のサインが必要だったため、発行がかなり大変でした。
1633年 には、鎖国令の第一弾として、 奉書船以外の海外渡航が禁止 されます。
つまり、日本人が海外に行くことが制限されたのです。
さらに 1635年 には、新たな鎖国令が出されます。
老中奉書の有無に関わらず、 日本人の海外渡航及び帰国が全面的に禁止 されました。
今度は、奉書船も禁止されて日本人が海外に行けなくなりました。
ただし、外国人が日本に来ることはまだOKでした。
イギリスは自ら撤退し、イスパニアは幕府から来航を禁止されていたため、このとき日本に来ていたヨーロッパの国はオランダとポルトガルだけでした。
そして 1639年 、 幕府はポルトガル船の来航を禁止 しました。
これにより、幕府と取引のあるヨーロッパの国は、オランダだけとなります 。
そのオランダについても、幕府がオランダの商館を長崎の 出島 (でじま)に移します。
オランダ人が出島でしか活動できないようにして、日本人との交流を減らした のです。
鎖国令はいくつか出されていますが、特にここで紹介した1633、1635、1639年の内容が重要です。
下一桁が359(サコク)となるので覚えやすいと思います。
ポルトガル船来航禁止のきっかけにもなった島原の乱
幕府が鎖国政策を進める中で、大きな反乱が起こります。
少しさかのぼって 1637年 、島原・天草という2つの地域での圧政に対して、天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)を中心とした農民一揆が勃発しました。
これが 島原の乱 (しまばらのらん/天草一揆(あまくさいっき)などの別名もある)です。
最終的にこの反乱を鎮圧したのは、老中の松平信綱(まつだいらのぶつな)でした。
幕府の中心人物である老中が、一地方の反乱鎮圧に出向いた 、ということで、どれだけ大きな反乱であったかが想像できるかと思います。
キリスト教徒が多い土地で起こった反乱であったことから、幕府はよりキリスト教への態度を硬化させます。
そして この反乱が一つのきっかけになって 、先ほど出てきたように 1939年、キリスト教布教をしていたポルトガル船の来航が禁止される ことになったのです。
このポイントでは、主に鎖国政策の進行と、その間に起きた島原の乱について見ていきましょう。