5分でわかる!徳川家綱の時代
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この動画の要点まとめ
ポイント
家綱のサポートを行った保科正之と酒井忠清
4代将軍家綱 は、幼くして将軍となり、また病弱でもありました。
そのため、その治世約30年間においては、 家綱自身が中心となって政治を行ったわけではなく、補佐役が政治を主導 しました。
家綱時代の前半には先代将軍家光の弟でもあった 保科正之 (ほしなまさゆき)、後半には大老 酒井忠清 (さかいただきよ)が政治を補佐しました。
末期養子の禁の緩和とは?
文治政治 (儒教的な徳治政治)の具体例である最初の政策は、1651年の 末期(まつご)養子の禁 の緩和です。
江戸時代には、大名が後継ぎを決めるときは、事前に幕府に届出をして許可をもらう必要がありました。
もし後継ぎが決まらないまま大名が死んだ場合は、領地取り上げ (改易)ということになっていました。
こうすることで、幕府は各地で起きている大名の後継ぎ選びには直接介入せず、しっかりと跡継ぎを決めて幕府に届け出ないと取り潰し! という形で一括管理していたのです。
しかしそうすると、もし後継ぎが決まらないまま大名が急に死にそうになった場合、その藩は困ってしまいます。
そこで、大名は家の断絶を防ぐためにあわてて養子をとって後継ぎとする 末期養子 という緊急避難措置が行われる可能性がありました。
しかし、 江戸時代初期にはこの末期養子は禁じられていました 。
この制度のために、後継ぎが決められず取り潰される大名家が続出し、 牢人の増加、社会不安の増大につながり、実際に1651年の慶安の変が起こった のです。
これを受け、幕府は50歳以下の大名については末期養子を認めるように、禁を緩和しました。
これによって大名たちにとっては、 後継ぎを決める際の自由度が向上し、取り潰しのリスクが減る ことになりました。
これが文治政治と呼ばれる、「みんなが喜ぶよい政治」の始まりとされます。
家綱時代は、大火事やアイヌの反乱も起きている
1657年には 明暦の大火 (めいれきのたいか/振袖火事とも言う)が起こって江戸の半分が焼失し、幕府は復興費用のために財政難に陥りました。
1669年には蝦夷において、松前藩に対するアイヌ人 シャクシャインの反乱 が起こりました。
1673年には、農民の零細化を防ぐべく、 分地制限令 によって 土地の分割相続が制限されました 。
シャクシャインの反乱や、分地制限令について、詳しくは以前の回で学習しているので、忘れている人は前に戻って確認してみてください。
2つめのポイント、徳川家綱の時代です。