5分でわかる!徳川綱吉の時代
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この動画の要点まとめ
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堀田正俊、柳沢吉保の下で政治が行われた
5代将軍徳川綱吉時代の政治の中心となったのは、はじめは大老 堀田正俊 (ほったまさとし)、のちに側用人から出世した老中 柳沢吉保 (やなぎさわよしやす)でした。
彼らの元で、儒教や仏教を重視した政策が多く取られました。
側用人は、将軍の側近として作られた役職 で、元々高い役職ではありませんでしたが、次第に政治の中心となっていきます。
武家諸法度にも儒教の影響
儒教重視の政策について、詳しく見ていきましょう。
武家諸法度 は①1615年元和(げんな)令以降、江戸時代の前半に何度か改正発布されています。
②1635年寛永令、③1663年寛文令を経て、綱吉の時代には④1683年 天和(てんな)令 が発布されました。
この天和令では、「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」といった儒教的文言が追加されました。
また儒教の創始者である孔子をまつる 湯島聖堂 (ゆしませいどう)とともに 聖堂学問所 (せいどうがくもんじょ)という塾が設立されました。
この学問所のトップである大学頭(だいがくのかみ)には、武家諸法度寛永令を起草した林羅山の孫にあたる 林信篤 (はやしのぶあつ、別名:鳳岡 ほうこう)が任命されました。
この学問所はのちに幕府御用達の塾として発展していきます。
動物愛護のための、生類憐みの令
綱吉は1685年以降、百数十回に渡って 生類憐みの令 という極端な動物愛護令を発布しました。
これは綱吉の母親である桂昌院の影響が大きいと言われています。
仏教の教えである、「無駄な殺生を哀れむ」ことを重視した政策でした。
綱吉は特に犬を手厚く保護したため、犬公方(いぬくぼう)とあだ名されました。
あまりに極端な愛護令であったため、庶民からは評判が悪かったようです。
財政回復のため元禄金銀を鋳造したが、インフレを呼び込んだ
4代家綱時代に起こった明暦の大火の復興費や、綱吉の生類憐みの令などによる無駄遣いなどで、 当時の幕府は財政難 でした。
そこで、勘定吟味役 荻原重秀 (おぎわらしげひで)を中心として、従来の慶長金銀よりも質を落とした(不純物の含有量が多い) 元禄金銀 (げんろくきんぎん)を鋳造します。
小判の中に含まれている金の量を減らした、ということです。
この減らしたぶんの金である「出目」(差額)を幕府の収入として、幕府の財政は一時回復しました。
しかし、 インフレが発生し経済は混乱 しました。
インフレとは、物価が上昇し、貨幣価値が下がることです 。
インフレは、この後何度も出てくる言葉ですので、この一文を丸ごと覚えてしまいましょう。
例えば、今まで10円で買えた物が20円になったら、100円で10個買えた物が5個しか買えなくなります。
「物価=物の値段」は上がっていますが、「貨幣価値=同じ値段で買える量」は下がってます ね。これがインフレです。
引き続き江戸時代の文治政治について、今回は 5代綱吉・6代家宣・7代家継の時代の政治 を見ていきます。
まずは1つめのポイント、5代将軍徳川綱吉の時代です。