高校日本史B
5分でわかる!寛政の改革(3)

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この動画の要点まとめ
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寛政の改革(ラックスマン来航・庶民の不満)
これでわかる!
ポイントの解説授業
ラックスマン来航

この頃、 林子平 (はやししへい)という人物が「 海国兵談 (かいこくへいだん)」を著して、 ロシアの脅威と海防の重要性を指摘 していました。
幕府は林子平を弾圧し、この「海国兵談」を発刊禁止とします。

しかしその直後、1792年に、実際にロシアの女帝エカテリーナ2世の命令を受けて、 ラックスマン が北海道の根室に来航し、通商を要求します。
根室には対応の用意がなかったため、幕府はひとまず長崎への入港証である信牌を渡して帰国させました。

この時、ラックスマンに伴って、漂流してロシアにいた伊勢の船頭、 大黒屋光太夫 (だいこくやこうだゆう)が日本に帰国しました。
漂流して外国に流れ着いた日本人が、日本に帰って来られるのは鎖国当時では珍しいことでした。
厳しい政治に庶民の不満が溜まる

上で林子平 寛政の改革は総じて厳しい政治であり、幕府の権威を重視したも のでした。
そのため庶民の間では、このような狂歌(皮肉や滑稽を盛り込んだ短歌)が読まれました。
寛政の改革を批判した狂歌①
①「白河の清きに魚も住みかねてもとの濁りの田沼恋しき」
(白川藩出身の松平定信の政治は清廉を求めすぎており、賄賂は横行していたが商業活動が盛んだった昔の田沼意次の政治がなつかしい)
②「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶというて夜も寝られず」
(文武に励めという松平定信の政治がうるさくて仕方がない)

庶民の間で不満が募り、将軍の徳川家斉自身も定信の改革が厳しすぎる、という感覚を持っていたようです。
こうした不満を受けて、1793年、松平定信は志半ばで失脚しました。
この後、幕府はまともな政治が行われない混乱の時代が続いていくことになります。

続いては、寛政の改革の時に起きた出来事などについて見ていきます。
3つめのポイント、 ラックスマン来航 と 庶民の不満 です。