5分でわかる!天保の改革
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この動画の要点まとめ
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株仲間解散令を出すも失敗。外交では穏健路線に逆戻り
第12代将軍徳川家慶(とくがわいえよし)のもとで、老中 水野忠邦 (みずのただくに)が政治の中心となり、 天保の改革 (てんぽうのかいかく)を進めました。
1841年に 株仲間の解散令 を出して、物価の引き下げをはかりました。
株仲間とは専売同業者組合のことでした。
株仲間を解散させることで、専売をやめさせて、自由な価格競争ができるようにして、物価を下げようとしたのです。
しかし結果としては、これは商人たちの反対もあり、あまりうまくいきませんでした。
外交に関しては、1806年の文化の薪水給与令で穏健路線、1825年 異国船打払令 で強硬路線をとっていましたね。
しかし、アヘン戦争などで中国が敗北したことを知り、外国に対する方針を再び転換しようとします。
そして、1842年に 天保の薪水給与令 (てんぽうのしんすいきゅうよれい)を出して、再び穏健路線へと戻りました。
ホームレス対策③ 人返し令で強制帰村!
寛政の改革のときに、都市に流入して無宿人(いわゆるホームレス)となった人々への対策として、① 人足寄場での強制的な職業訓練 、② 旧里帰農令で帰村を奨励 、というものがありました。
天保の改革では、3つある「江戸のホームレス対策」のパート3が出されます。
1843年に出された 人返し令 は、 都市に流入した農民を強制的に帰村させる 、というものです。
寛政の改革での旧里帰農令は「帰村の奨励」でしたが、それとは違い、 従わない場合は死刑という大変厳しい措置を取りました 。
直轄化計画である上知令も失敗し、水野忠邦は失脚
1843年には 上知令 (あげちれい)という、江戸大坂周辺の土地を直轄化する計画を提案しました。
しかし元々、江戸や大坂の周辺などの要所は、 譜代大名 が領地とする場所です。
水野忠邦は、替地を命じられたこれらの大名から、猛反対・猛反発を受けることになります。
結局、 上知令は却下され、そうした反対を抑えるだけの力も権威も不足していた忠邦は早々に失脚 してしまいました。
こうして、天保の改革はわずか3年で失敗に終わりました。
ペリー来航の10年前、幕府がぼろぼろになっていた時代です。
今回は、三大改革の最後である天保の改革と、この時期以降に諸藩で行われた藩政改革について見ていきましょう。
まずは1つめのポイント、 天保の改革 についてです。