高校日本史B
5分でわかる!徳川家茂の時代(5)―文久の改革
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この動画の要点まとめ
ポイント
徳川家茂の時代(5)
これでわかる!
ポイントの解説授業
島津久光と「文久の改革」
まずは、江戸幕府を立て直そうとする動きから見ておきましょう。
1862年、薩摩藩の島津久光が江戸に出向き、文久の改革を行いました。
この改革で設置された、新たな役職と、任命された人物をおさえましょう。
まず、将軍後見職に一橋慶喜が任命されました。将軍・徳川家茂は若年で病弱でしたから、これを機に、一橋慶喜が将軍職に近い形で、政治をまとめることになりました。そして、慶喜を補佐する形で、政事総裁職に松平慶永が就きました。
また、この頃の京都には、尊王攘夷の過激派たちが集っていました。京都の治安を維持するために京都守護職が新設され、会津藩主の松平容保がこれに任命されました。
京都守護職の下には、新撰組などの組織がつくられ、以前から存在した京都所司代も、京都守護職の下に置かれました。
生麦事件により、薩英戦争が勃発!その結果は…?
文久の改革を遂行した島津久光ですが、彼ら一行が江戸から薩摩に帰る際に、1つの事件が発生します。それが、生麦事件です。
生麦村(横浜付近)で、大名行列の前を横切ったイギリス人3人を、薩摩藩士が殺傷してしまったのです。
これをきっかけに、1863年、薩英戦争が勃発しました。薩摩藩が単独でイギリスに勝利できるわけもありませんでしたが、薩摩藩も奮闘した結果、双方被害を受けて講和という形になりました。
この戦争と講和を通じて、薩摩藩はイギリスの軍事力を知り、攘夷ではなく外国と手を結ぶ方向へと方針を転換していきます。イギリスとしても、薩摩藩に人脈ができたことで、両者は互いに接近、提携を始めるようになりました。
少し後の話になりますが、最終的に薩摩・長州が幕府を倒すときには、イギリスはこれを全面支援します。こうした、薩英戦争がもたらした影響を、しっかりおさえておきましょう。
今回は幕末期、いよいよ幕府滅亡の足音が近づいてきます。
まずは1つめのポイント、文久の改革です。