5分でわかる!自由民権運動(士族民権運動)
- ポイント
- ポイント
- ポイント
- 練習
この動画の要点まとめ
ポイント
民間・地方から盛り上がる政治活動!
明治六年の政変で下野したメンバーのうち、板垣・後藤・江藤・副島らは、1874年に愛国公党というグループを結成し、政府に対する批判、攻撃を始めます。これが、自由民権運動の始まりです。
愛国公党を結成してすぐ、板垣らは、民撰議院設立建白書を政府に提出し、民間の立場から、政府に対し、国会と憲法をつくるように求めました。しかし、内務卿・大久保利通を中心とする政府は、これを無視しました。
板垣らは、それぞれ地元に戻って、政治活動・政府攻撃を継続していきます。板垣退助・片岡健吉らは地元の土佐で、立志社を設立しました。
立志社をはじめとした地方での自由民権運動は、民衆の心をとらえ、活動が盛り上がっていきます。これらを全国的な運動としてまとめるため、1875年、大坂で愛国社が設立されました。
大阪会議で板垣らは政府に復帰!
自由民権運動の盛り上がりを無視できなくなった政府は、1875年に大阪会議を開き、内務卿である大久保と、下野組の板垣、木戸孝允で三者会談を行いました。
木戸孝允は元洋行組で、明治六年の政変では政府に残留しましたが、その後、台湾出兵に反対して下野していたのでした。
この会議で、(漸次)立憲政体樹立の詔を出し、少しずつ国会開設の準備をしていくことが決定されました。
また、元老院(立法)・大審院(司法)・地方官会議を設置することも決まりました。
そして、これを機に、板垣らは政府に復帰することになります。
ちなみに、「大阪」の字には注意しておきましょう。江戸時代には「大坂」と書き表されていましたね。諸説ありますが、 明治時代以降は「大阪」 と表記されますのでチェックが必要です。
大久保の真の狙いと弾圧立法!
自由民権運動の中心人物であった板垣らの政府復帰によって、当然ながら、民間からの政府攻撃の手は弱まります。
大久保はこの機に、讒謗律・新聞紙条例を定めて政府への批判を禁止します。こうして大久保は、政府攻撃を原動力としていた愛国社を解散に追い込み、自由民権運動の勢いをなくすことに成功したのです。
ちなみにですが、「讒謗律」の漢字は難しいですね。「讒」も「謗」も、「悪口」を表す漢字です。「讒謗律」とは、政府に対する悪口を言ってはならない、という意味です。
2つめのポイント、自由民権運動についてです。