5分でわかる!自由民権運動(豪農民権運動)
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この動画の要点まとめ
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自由民権運動の復活と弾圧!
1877年、西南戦争が起きたのと同じ年に、言論による政治活動を弾圧されていた立志社が、再び政府批判を始めます。ここで示されたものを立志社建白といい、国会開設などが要求されました。
その流れで、1878年、愛国社も再興されます。
こうした活動は再び盛り上がりを見せ、1880年、愛国社は国会期成同盟と改称されました。「国会をつくる」という最大の目的を、より具体的に押し出した形ですね。
しかし、これに対して政府は集会条例という弾圧立法を行いました。集会は許可制、更に警察官の立ち合いを必要とするという内容でした。これにより、国会期成同盟は自由に政治集会を開くことができなくなります。
政府のスキャンダルにより大逆転へ!
自由民権運動は再び潰されてしまうかに見えましたが、ここで大逆転が起こります。
1881年の、北海道開拓使官有物払下事件です。
北海道の開拓を担当していた政府機関のトップ、黒田清隆(薩摩)が、同じ薩摩藩出身の政商、五代友厚に、官有物をタダ同然で払い下げようとしたことが発覚したのです。
これにより、政府には批判が集中しました。
もともと大久保利通や伊藤博文らは、国会開設はは時期尚早であり、政治の専門家が舵を取るべきだと主張していました。しかし、このスキャンダルによって、政府の中心人物たちに対する信頼が、大きく損なわれたわけです。
遂に国会開設が約束される!
政府は、国会開設の勅諭によって、10年後の1890年に国会を開設することを公約しました。
これより前、大阪会議の際にも漸次立憲政体樹立の詔が出されていましたが、具体的な進捗はありませんでした。今回は、明確に期日を設けることで、国民を納得させるしかなかったのです。
ここにきて遂に、自由民権運動は、政府に国会開設を約束させるところまで漕ぎつけました。
これ以降、民権運動家たちは、国会開設を見据えて、政党の結成へと進んでいくことになります。
最後に、明治十四年の政変についても押さえておきましょう。これは、伊藤博文が大隈重信を政府から追放した事件です。
背景には、政府の中にありながら、国会開設に賛同する大隈の立場がありました。国会開設という目的を果たすために、開拓使官有物払下事件に関わったのではないかと、伊藤に疑われたわけです。
以後、大隈は政府を離れた形で政治に関わるようになります。
2つめのポイント、自由民権運動の後半、新たな展開についてです。
最初に、大久保利通が暗殺された後、伊藤博文が内務卿を継いでいた点をおさえておきましょう。