高校日本史B
5分でわかる!朝鮮問題
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この動画の要点まとめ
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朝鮮問題
これでわかる!
ポイントの解説授業
親日派と親清派の争い!
当時の朝鮮は、王の妃である閔妃(びんひ)が実権を握っていました。朝鮮は国家の力が弱く、国内は日本と親しくして援助を受けようと考える親日派と、清に近づこうとする親清派に分かれていました。
そこで起きたのが1882年の壬午軍乱です。これは、親日派である閔妃に対し、王の父であり親清派の大院君が、クーデターを起こした事件です。
これは、日本の軍事援助もあって、失敗に終わりました。
壬午軍乱の鎮圧をきっかけに、日本は朝鮮と済物浦条約を結び、朝鮮に賠償金を支払わせました。
壬午軍乱から2年後の1884年、再び事件が発生します。
この頃、閔妃は変わらず政権を握っていたのですが、事大党という親清派のグループに所属するようになっていました。
これに対し、親日派の独立党に所属する金玉均や朴泳孝らが、閔妃に対してクーデターを起こそうとしました。これを甲申事変といいます。
しかし、こちらも計画は失敗に終わりました。
日清間のけん制!「天津条約」!
甲申事変の際には、その鎮圧を名目に日清両国が朝鮮に出兵していました。両国ともに、隙があれば朝鮮を自国の領土にしたいと考えていたため、クーデターの鎮圧後も、軍を朝鮮に留め続けました。
そこで、1885年、日本と清の間で、天津条約が結ばれました。これは、日清両国が同時に撤兵する事や、以後の出兵時には互いに事前通告する事を定めたものです。
こうして、日本と清は、朝鮮問題についてけん制し合う形となりました。
また、同じ1885年には、福沢諭吉が脱亜論を発表しました。日本が強い国家となるために、アジアを脱して、ヨーロッパの仲間入りをしようという考え方で、そのためには朝鮮などの侵略も肯定するというものでした。
内閣が発足する少し前の時期、日本ではこうした対外強硬的な風潮ができつつあったというわけです。
次に、朝鮮問題を見ていきます。
今回の話は、1882年から始まります。伊藤博文の渡欧や、自由党による福島事件が起きたのと同じ年です。
これらが同時並行的に行われていたことをおさえましょう。