高校日本史B
5分でわかる!松方正義内閣①
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この動画の要点まとめ
ポイント
松方正義内閣②
これでわかる!
ポイントの解説授業
政府の苦慮と「蛮勇演説」!
1891年、山県有朋内閣に代わって、松方正義内閣が発足し、この年に開かれたのが第二議会です。第二議会でも、やはり政府は議会の扱いに苦慮します。
海軍大臣・樺山資紀が、議会で藩閥政治を擁護し、軍備拡張の正当性を訴えましたが、ただ勇ましいだけの演説だと批判され、効果はありませんでした。これを蛮勇演説といいます。
結局、そのままでは予算を成立させられない政府は、第二議会の後、議会を解散して選挙を行う選択をしました。
内務大臣を中心とする選挙干渉!
議会を解散し、改めて選挙を行ったとしても、改めて民党が勝利したのでは政府にとっては意味がありませんね。
そこで、この選挙では、内務大臣・品川弥二郎を中心として、大規模な選挙干渉が行われました。
内務大臣は、警察を管轄しているのでしたね。つまり、警察を動員して民党の選挙活動を妨害、死傷者が400人以上に上るという事態になりました。
しかし、結果的には、これほどの干渉にもかかわらず、選挙は民党の勝利に終わるのでした。
法権回復を頓挫させた「大津事件」
第1次松方内閣における外交を見ていきます。外交のテーマは、やはり不平等条約の改正ですね。
交渉に当たったのは、外務大臣・青木周蔵です。青木は外交官出身であり、領事裁判権の撤廃(法権回復)について、イギリスの賛成を取り付けるところまで成功しました。
しかし、1891年、来日していたロシア皇太子ニコライを、津田三蔵という巡査が斬りつけるという事件が発生します。これを大津事件といいますが、青木はその責任を取る形で辞任し、結局、条約改正交渉も頓挫することになってしまいました。
続いて、第二議会と第1次松方正義内閣の外交について見ていきましょう。