5分でわかる!山形有朋内閣②
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この動画の要点まとめ
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政党内閣失敗の反動!
第1次大隈内閣の崩壊を受けて発足した第2次山県有朋内閣は、1898年、地租増徴を決行します。増税に反対していた憲政党の崩壊といった背景もあり、山形はこれを押し切った形ですね。2.5%だった地租は、3.3%まで引き上げられます。
また、山県は文官任用令を改正し、政党の人間が役人になる事を制限しました。
「1900年」の重要な法制定!
第2次山県内閣の動きの中でも、1900年は特にポイントになります。重要な法律などが次々と生まれました。
まず1つ目は、治安警察法の制定です。反政府的な運動を取り締まる条例などをまとめた弾圧立法です。
2つ目は、衆議院議員選挙法改正です。選挙権の付与について、直接国税15円以上の条件が、10円以上に引き下げられました。これにより、全人口の2.2%の人が選挙権を持つことになりました。
3つ目は、軍部大臣現役武官制の制定です。陸軍・海軍大臣については、現役の大将や中将でなければ就任できないことになりました。
この制度の下では、軍部が大臣を出さなければ内閣は立ち行かなくなります。その気になれば、軍部が内閣を総辞職に追い込む事も可能となったわけです。
その他、同じく1900年に起きた出来事を確認しておきます。
まずは北清事変ですね。これは、義和団事件(義和団の乱)を、日本ほか8か国が鎮圧した事件です。
また、政党にも大きな動きが生まれます。
それが、伊藤博文による、憲政党員を中心とした立憲政友会の結成です。
大隈内閣が崩壊した際、大隈に近い党員は憲政党から離脱していたので、分裂後の憲政党は主として旧自由党系の党員で構成されていました。伊藤は彼らとともに新党を結成し、第4次伊藤内閣につなげるのでした。
結成当初から政府と戦い続けていた旧自由党のメンバーが、政府の重鎮である伊藤と組んだわけです。幸徳秋水はこれを、「自由党を祭る文」で批判しました。
今回も、日清戦争後の政治を見ていきます。
まずは、第2次山県有朋内閣ですね。この内閣は、見るべきポイントが沢山あります。