高校日本史B
5分でわかる!寺内正毅内閣 (ロシア革命)
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寺内正毅内閣(ロシア革命)
これでわかる!
ポイントの解説授業
革命の波及を恐れた列強各国!
第一次世界大戦中の1917年、ロシア革命が発生し、レーニンの主導で君主政が打倒されて初の社会主義政権が成立します。
列強各国は、この動きが自国にも及ぶことを危惧し、食い止めるための行動に出ます。
まず、同じく1917年、日米間で石井・ランシング協定が結ばれます。これにより、中国における日本の権益が承認されます。
これ以前、アメリカは中国権益を得るために日本への介入を試みて、両国の関係は悪化しつつありましたが、ロシア革命という非常事態を受けて再び接近した形となります。
そして翌1918年、日本は英米仏とともに、シベリア出兵を行います。これは、ロシアの王朝を援護しようとして取り残されていたチェコスロバキア軍の救出を名目としていましたが、その実情は、ロシア革命に対する干渉戦争でした。
しかし、余りにも過酷なシベリアの気候に阻まれ、上手くいきませんでした。
シベリア出兵がもたらした混乱「米騒動」!
このシベリア出兵は、国内に思わぬ混乱をもたらすことになります。
日清・日露戦争の経験から、日本国民は戦争が始まれば物価が高騰する事を学んでいました。
そこで、より利益を大きくするために米の買い占めや売り惜しみが発生し、米価が急騰したのです。
こうした状況の中、1918年、米騒動が発生します。
これは、富山の漁民主婦が蜂起して米屋などを襲ったことをきっかけに、暴動が全国に広がって大混乱を引き起こした事件です。
政府は軍を動員してこれを鎮圧しますが、民衆の不満の高まりと、更には騒動を軍を使って強圧的に収拾するという対応のまずさから、結果的に寺内正毅内閣は総辞職することになりました。
続いて、ロシア革命への政府の対応を見ていきましょう。