5分でわかる!加藤高明内閣①②
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この動画の要点まとめ
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「憲政の常道」が始まる!
清浦奎吾内閣が倒れると、憲政会の総裁である加藤高明を首相として、護憲三派内閣が発足します。
これが、第1次加藤高明内閣です。(後に、護憲三派が分裂する形で、第2次加藤高明内閣がつくられます。)
この後、1931年に犬養毅内閣が倒れるまで、議会の多数派の政党によって構成された政党内閣が続きます。
国民の代表による民主主義的な政治たということで、この時期の政党政治を憲政の常道と呼びます。
幣原協調外交と、「アメとムチ」の政策!
第1次加藤高明内閣の動きを見ていきましょう。まずは外交ですね。
1925年、日ソ基本条約が結ばれます。元々は、革命を妨げるためにシベリア出兵まで行っていた日本ですが、ここでソ連との国交樹立がなされます。これは、幣原喜重郎外相の特徴である協調外交の表れと見ることができるでしょう。
ただ、社会主義国であるソ連との国交樹立は、その思想の流入といった意味で、政府にとって懸念すべきことでもありました。
続いて、国内政治を見てみましょう。
1925年、衆議院議員選挙法が改正され、25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられます。納税規定の撤廃により、男子による普通選挙が成立することになりました。
さて、普通選挙の実現で貧困層にまで選挙権を与える事は、前述のソ連との国交樹立もあいまって、政府にとっては懸念材料となりました。
そこで、政府は普通選挙の実現とセットで、いわゆるアメとムチのような形で、もう一つ法律を制定します。
それが、治安維持法です。
治安維持法は、反政府運動を弾圧する法律です。
特に、天皇制や私有財産制を否認するような結社を禁止しました。
つまり、国家を転覆しようとする革命運動や、共産主義などを厳しく取り締まったわけです。
ちなみに、1900年に制定された治安警察法とは別のものなので、混同しないようにしましょう。
中国での労働者のストが、反帝国主義運動へ!
最後に、中国で起きた事件を見ておきましょう。
1925年、五・三〇事件が発生します。
これは、在華紡(中国に進出した日本の紡績業)の中国人労働者のストライキだったのですが、それが過熱した結果、反帝国主義を掲げる大ストライキへと発展しました。
続いて、加藤高明内閣について見ていきましょう。