高校日本史B
5分でわかる!大正デモクラシー (労働運動)
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この動画の要点まとめ
ポイント
大正デモクラシー(労働運動)
これでわかる!
ポイントの解説授業
充分な内容でなかった「工場法」!
まずは、本題に入る前に、前提となる状況を確認しておきましょう。
1911年、明治の終わりに、労働者を保護するための工場法という法律が作られていました。
労働時間や年齢などに制限を定めたものですが、15人未満の小さな工場には不適用だったり、そもそも工場経営者の反発を受けて1916年まで施行が延期されるなど、充分な内容とは言えませんでした。
そうした中で、労働者の権利をより強く主張するべく、大正時代の労働運動が行われていくわけです。
「戦後恐慌」で労働運動拡大へ!
1912年、友愛会という労働者団体が結成されます。会長は鈴木文治です。
結成当初の友愛会は、労使協調路線で、資本家とも協力しながら、労働者の権利を守ろうという考え方をしていました。
この友愛会が発展し、勢力を拡大する形で、1919年には大日本労働総同盟友愛会が、1921年には日本労働総同盟が結成されます。
こうして労働運動が拡大する中で、1920年には日本初のメーデーも催され、およそ1万人もの労働者による集会が行われました。
この時期に発展・拡大が進んだ背景には、戦後恐慌で労働者の生活が苦しくなったことが挙げられます。
これは、日本労働総同盟が、初期の友愛会とは違って階級闘争主義へ舵を切り、資本家と対決する組織となっていた事からもうかがえます。実際にこの頃には、年間に何千というストライキが行われるようになりました。
また、日本労働総同盟の中でも特に過激派だった層は、組織から分裂する形で、1925年に日本労働組合評議会を結成しました。
では、大正デモクラシーの具体的な運動について、まずは労働運動から見ていきましょう。