5分でわかる!田中義一内閣 (外交・内省)
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この動画の要点まとめ
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強硬外交と「張作霖爆殺事件」!
田中義一内閣の外交を見ていきましょう。
まずは国際協調的な動きに1つ触れておきましょう。1928年の、パリ不戦条約調印です。
アメリカの国務長官ケロッグと、フランスの外務大臣プリアンによって提唱されたもので、紛争の平和的手段での解決が規定されました。
ここからが本題ですが、田中内閣は、若槻内閣とは異なり、中国に対して強硬外交を行っていきます。
具体例としては、1927年から3度に渡って実行された山東出兵です。中国在留民の保護を口実に、蔣介石の北伐に対して干渉を行いました。
また、1928年には、張作霖爆殺事件が起こります。
当時、日本は中国の北方軍閥であった張作霖を支援していましたが、張作霖は蒋介石に敗れてしまいます。
そして、張作霖は奉天へと帰還する途中、その利用価値に見切りをつけた関東軍によって、乗っていた列車ごと爆殺されてしまったのです。
関東軍というのは、明治時代にできた関東都督府が、関東庁と関東軍に分かれてできたもので、中国の関東州を管轄する日本軍です。
この事件は内閣ではなく関東軍が主導して行われたものでしたが、その後の処理をめぐって田中内閣は総辞職することになりました。
普通選挙、そして弾圧政策へ!
続いて、田中内閣の内政を見てみましょう。
1925年の普通選挙法を受けて、1928年に初めての普通選挙が行われます。
この結果、貧しい労働者や農民のための政党である無産政党から、8名が当選するという事態になります。
当時の選挙は小選挙区制で行われていたため、政友会などの大政党が著しく有利でした。
そんな中で無産政党から当選者が数名出たという事実に、政府は強く警戒し、対策を打つことになります。以下で確認しましょう。
1928年の3月15日と、翌年の4月16日に、それぞれ三・一五事件、四・一六事件という共産党弾圧事件が起こります。
これは、治安維持法を根拠に共産党員が多数逮捕された事件です。
また、この2つの事件の間で治安維持法改正が行われ、最高刑が懲役10年から死刑へと厳罰化されたり、当初東京の警視庁に置かれていた特別高等警察が全国に配置されるなど、反政府的運動への締め付けは厳しくなっていきました。
では、田中義一内閣の外交と内政を見ていきましょう。