高校日本史B
5分でわかる!広田弘毅内閣
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この動画の要点まとめ
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広田弘毅内閣・林銑十郎内閣
これでわかる!
ポイントの解説授業
軍の発言力増大!「軍部大臣現役武官制」復活
岡田啓介内閣を次いで発足した広田弘毅内閣は、「広義国防国家」建設を掲げます。
広い意味での国防ということで、その実態は大陸への進出を指しました。
1936年、広田内閣は軍部大臣現役武官制の復活を行います。
軍部大臣現役武官制は、元々1900年に定められたものですね。軍部が現役の大将や中将から大臣を用意しなければ、内閣を潰すことさえできてしまう制度です。
この制度は、1913年に一旦改められ、現役規定が外されていたのですが、広田内閣によってそれが復活したというわけです。
背景には、二・二六事件に象徴されるように、軍部の政治的圧力の増大がありました。
以後、実際にこの制度を盾に、軍部が内閣を倒す事態が発生するようになります。
孤立を深めた日独の結託「日独防共協定」!
次に、国際関係を見てみましょう。
1936年、日独防共協定が調印されます。
「防共」というのは、「共産党勢力を防ぐ」という意味で、これは日本とドイツによる、ソ連を仮想敵国とした秘密協定でした。
第一次世界大戦の敗戦から立ち直り、ヒトラーのもとで再び軍備を増強していたドイツと、国際的な孤立を深めていた日本が、ここで手を組んだ格好となりました。
抗日への方針転換!「西安事件」!
最後に、中国で発生した事件を確認しておきまましょう。
1936年12月に起きた、西安事件です。
当時の中国は、蔣介石率いる国民党と、共産党との内戦が起こっていました。
そのような中、張作霖の子である張学良が蔣介石を監禁し、内戦の停止と日本への抗戦を訴えたのです。
結果的に、内戦は停止されることになり、後に中国が一致団結して日本に対峙するきっかけが作られることになりました。
続いて、二・二六事件以降の状況を、広田弘毅内閣の時代を中心に見ていきましょう。