5分でわかる!近衛文麿内閣①
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この動画の要点まとめ
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日中戦争勃発!「盧溝橋事件」
1937年7月7日、盧溝橋事件が発生します。
これは、北京郊外での日中間衝突事件で、日中戦争勃発の引き金となりました。
場所も確認しておきましょう。
満州事変と日中戦争の区別をきっちりつけましょう。
満州事変が満州、中国東北部で起きていたのに対し、日中戦争では盧溝橋事件をきっかけに、より南方へと進出していくことになります。
日中戦争が始まってから、中国では第二次国共合作が行われ、抗日民族統一戦線が成立します。
国共合作というのは、蔣介石率いる国民党と、毛沢東率いる共産党が争いを止めて協力するという意味です。これにより、中国は国を挙げて日本と戦う構えとなりました。
一方で、日本は国民精神総動員運動を行って、戦争遂行のため国家に協力するよう国民にはたらきかけたり、日独防共協定にイタリアを加えた日独伊三国防共協定を結ぶなどしました。
このとき、ドイツの指導者はヒトラー、イタリアはムッソリーニだったという点もおさえておきましょう。
南京占領も、戦争は泥沼化へ!
戦争勃発から約半年後、日本は中国の首都であった南京を占領します。
しかし、蔣介石率いる国民政府は山奥の重慶へと逃れ、日本が攻めあぐねたことで戦争は泥沼化していきます。こうして、日中戦争は、1945年の日本の敗戦まで続くことになるのでした。
また、南京事件(南京大虐殺)は、この時に起きたとされています。
国民政府を無視する宣言「近衛声明」!
翌1938年、戦争が泥沼化していく中、近衛内閣は、3度に渡る近衛声明を発します。
これは、重慶に逃れた国民政府を無視し、中国に新たな政権を打ち立てるという宣言でした。
第一次近衛声明では、「国民政府を対手とせず」とし、国民政府との交渉の打ち切りを宣告しました。
そして、第二次近衛声明では、「東亜新秩序の建設」として、中国に新たな政権を立てて、アジアの国家の枠組みを作り直す事、第三次近衛声明では、「近衛三原則」として、それらの国家で協調していくことが唱えられました。
こうして戦争が続く中、国内では1938年、国家総動員法が制定されます。
これは、法律を定めることなく、勅令で人や物資の統制・動員を可能にするもので、国を挙げての戦争遂行態勢の下地となりました。
また、中国との戦争に行き詰まる中、日本がソ連に戦いを仕掛けていくという事件が発生します。
これを、張鼓峰事件といい、満州や朝鮮とソ連との国境で戦闘を行いますが、日本は大敗を喫します。
日中戦争は先行きが見えず、ソ連にも敗北するという状況の中、近衛内閣は退陣していくことになります。
今回は、日中戦争とその展開について見ていきましょう。
まずは、第1次近衛文麿内閣の動きを確認していきます。