5分でわかる!近衛文麿内閣② (対外政策)
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この動画の要点まとめ
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対米関係悪化!北部仏印進駐と三国軍事同盟!
1940年、日本軍は南進政策として、北部仏印進駐を行います。
仏印とは、フランス領インドシナのことです。地図で確認しましょう。
中国から更に南下し、この地域まで進軍した目的は、石油の獲得と、援蒋ルート(国民政府を援助する経路)の遮断でした。
しかし、こうして軍を南下させてフランス領まで侵略するという選択は、アメリカを大いに刺激しました。
更に、日本は日独伊三国軍事同盟を結びます。こちらも、表で確認してみましょう。
元々、日独伊の三国(枢軸国)は、ソ連を仮想敵国とする日独伊三国防共協定を結んでいました。
それが、ここに来て、独ソ不可侵条約が締結された状況もある中で、アメリカを仮想敵国とする軍事同盟が結ばれたのです。
そもそも北部仏印進駐がアメリカを刺激する上に、アメリカとの対立を明確にする軍事同盟が結ばれたことで、アメリカの態度は硬化しました。
アメリカは、日本に対する経済制裁として鉄鋼・くず鉄の禁輸を決定します。鉄がなければ、戦車や軍艦を造ることもできません。鉄鋼などの輸入について、アメリカに頼るところが大きかった日本にとって、この制裁は大きな痛手でした。
外交政策の不一致!?日ソ中立条約と対米交渉
日独伊三国軍事同盟を結んだ日本は、ソ連との距離を縮めていきます。松岡洋右外相は、ここにソ連を加えた4カ国の軍事同盟で、アメリカに対抗しようと考えたのです。
結果的に、軍事同盟には至りませんでしたが、1941年、日ソ中立条約が結ばれることになります。
ところが、松岡外相がソ連との連携を模索する中で、日米開戦を回避したい近衛首相は、直接日米交渉の開始に乗り出します。この交渉は、駐米大使の野村吉三郎と、アメリカ国務長官ハルの間で行われました。
政府の混乱は、同じ内閣にありながら、その外交政策の足並みも揃わないようなところまで来ていたのです。
続いて、第2次近衛文麿内閣の対外政策について見ていきましょう。