高校日本史B
5分でわかる!近衛文麿内閣③
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この動画の要点まとめ
ポイント
近衛文麿内閣③
これでわかる!
ポイントの解説授業
日米関係が決定的悪化!「南部仏印進駐」!
1941年7月、日本軍は、南進政策を進め、南部仏印進駐を行います。
北部仏印進駐の時は、辛うじて援蒋ルートの遮断という名目がありましたが、軍を南部仏印にまで進める事は、日米関係を決定的に悪化させました。
これにより、アメリカ・イギリス・中国・オランダによる対日経済包囲網、ABCDラインが強化され、アメリカは、日本に対する石油の輸出を禁止しました。
この措置により、日本は決定的な状況に追い込まれます。燃料である石油の足りない状態では、長期的に戦争を続ける事はできません。
日本に残された選択肢は、速やかに戦争を止めるか、一挙に決着を着ける短期決戦に持ち込むかの二択に絞られることになります。
東条陸相との対立!そして近衛内閣は総辞職へ
国際的に追い込まれた状況下、対米開戦を主張する東条英機陸相と、戦争を回避したい近衛首相が対立します。
その結果、1941年10月、近衛内閣は総辞職することになりました。
なぜ、陸相との対立が原因で、近衛内閣は総辞職をしなければならなかったのでしょう。
背景にあるのは、軍部大臣現役武官制ですね。この制度の下では、軍部は、意見の合わない内閣を退陣させることさえできるのでした。
こうして、遂に東条英機内閣が発足し、日本は太平洋戦争へと突き進んでいくことになります。
民衆の戦争動員!「勤労動員」「学徒出陣」
最後に、戦時中の民衆の生活について触れておきましょう。
国内では、勤労動員といって、国民は軍需工場へ動員されるなどしました。
戦局が悪化してからは、学生を戦争に動員する学徒出陣が行われたり、女子挺身隊を結成し、国家のために勤労奉仕させるといったことが行われました。
また、朝鮮や台湾といった植民地では、皇民化政策が進められました。
具体的には、創氏改名といって日本的な名前に変えさせたり、日本語の使用を強制するといったことが行われました。
では、第3次近衛文麿内閣について見ていきましょう。
首相は近衛のままですが、閣僚の顔触れが変化して第3次内閣となっています。