高校日本史B
5分でわかる!吉田茂内閣③ (講和)
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この動画の要点まとめ
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吉田茂内閣③(講和)
これでわかる!
ポイントの解説授業
単独講和と全面講和の論争が発生!
1951年、サンフランシスコ講和会議が開かれます。
この会議で、日本は交戦国と講和し、独立を回復していくことになるわけですが、ここに1つの問題がありました。
1951年といえば、朝鮮戦争の最中に当たります。朝鮮戦争の勃発で、アメリカは日本の統治にばかり注力していられる状況ではなくなっていました。
よって、この講和会議には、日本を独立させてしまいたいというアメリカの思惑があったのです。
これに対し、アメリカの考えを察したソ連などは、条約に調印しない姿勢を見せます。
こうした状況から、国内では、ソ連などの社会主義国を除いて講和する単独講和論と、あくまでも交戦国全てと講和すべきだとする全面講和論の間で論争が起きました。
単独講和論は、吉田茂内閣をはじめとして主に保守勢力が、全面講和論は主に革新勢力が支持しますが、結局は、数で勝る単独講和論が押し切る形となりました。
日本独立へ!「サンフランシスコ平和条約」!
1951年、サンフランシスコ平和条約が締結されます。
この条約は翌1952年に発効し、アメリカ軍による日本の占領は終了、日本は独立国になりました。
但し、前述のように、条約締結に反対していた国があります。
社会主義国家の中でも、ソ連・チェコスロバキア・ポーランドは、会議に参加しながらも調印せず、ユーゴスラビアは、そもそも会議に参加しませんでした。
インドやビルマは、賠償金などの問題もあって、参加しませんでした。
また、中華民国と中華人民共和国は、どちらも招待されませんでした。片方だけ招くか、あるいは両国とも招くかといった点について、米英などで意見の対立があったためです。
今回は、日本が独立を回復する流れを見ていきましょう。
まずは、サンフランシスコ平和条約の締結ですね。