高校日本史B
5分でわかる!仏教(臨済宗五山派)
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この動画の要点まとめ
ポイント
臨済宗五山派
これでわかる!
ポイントの解説授業
五山・十刹の制
室町幕府3代将軍の 足利義満 は、幕府が保護していた臨済宗の寺を管理するため、南宋にならった寺の序列を導入しました。
お寺のランク付けをした、ということですね。
これが、 五山・十刹の制 (ござん・じっさつのせい、または官寺の制)です。
義満は、京都に別格本山(最高位)として 南禅寺 (なんぜんじ)を定め、京都・鎌倉にそれぞれ五山、その下に十刹というランク付けを行いました。
京都五山のうち、特に上から3山、順に 天竜寺 (てんりゅうじ)・ 相国寺 (しょうこくじ)・ 建仁寺 (けんにんじ)が重要です。
鎌倉五山も上位3山、 建長寺 (けんちょうじ)・ 円覚寺 (えんがくじ)・ 寿福寺 (じゅふくじ)が重要です。
余裕があれば、それぞれの4位・5位も覚えましょう。
五山・十刹の制に組み込まれたお寺は、 幕府のコントロールを受ける代わりに、幕府に保護してもらえる 、というメリットがありました。
臨済宗を統括する僧録
臨済宗を統括し、僧侶を取り締まる役職として、 僧録 (そうろく)というものがありました。
この僧録の事務所として、僧録司(そうろくし)が設置されました。
初代僧録には、 春屋妙葩 (しゅんおくみょうは)という人物が就いています。
足利尊氏が後醍醐天皇のために建てた天竜寺
足利尊氏は、 夢窓疎石 (むそうそせき)という僧に帰依し、後醍醐天皇の冥福を祈るために 天竜寺 を建立しました。
その建設費用を得るため、元に派遣されたのが 天竜寺船 です。
ちなみに元々、足利尊氏と後醍醐天皇は、どちらも夢窓疎石に帰依していました。
後に尊氏と後醍醐天皇は、北朝・南朝に別れて対立します。
しかし尊氏は、夢窓疎石の助言もあり、後醍醐天皇の死を弔うため、この天竜寺を造立したのです。
2つ目のポイントは、 臨済宗五山派 と呼ばれた、臨済宗の中でも特に幕府との関わりが深い部分について見ていきます。