5分でわかる!征韓論をめぐる対立
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この動画の要点まとめ
ポイント
西郷隆盛・板垣退助らは「征韓論」を唱える
写真に写っているのは、左から順に
西郷隆盛 (薩摩)、 板垣退助 (土佐)、 大久保利通 (薩摩)、 岩倉具視 (公家)
です。
当時、政府上層部では 征韓論 を巡って、連日激しい議論がなされていました。
征韓論とは 鎖国中の朝鮮を武力で開国させよう という考えで、西郷隆盛や板垣退助らが主張していました。
明治政府は 朝鮮と国交を結ぼう と考えていたのですが、当時鎖国状態にあった朝鮮は、
日本の申し出を頑なに拒んでいました。
その態度にしびれを切らした人たちが、武力で朝鮮を開国させようと考えたのです。
この考え方が「征韓論」です。
大久保利通、岩倉具視らは「征韓論」に反対
一方、大久保利通や岩倉具視は 朝鮮の開国よりも日本国内の近代化が先だ と考え、征韓論に反対しました。
大久保利通と岩倉具視といえば、「 岩倉使節団 」のメンバーでしたね。
海外を視察した彼らは、朝鮮との交流よりも 国内改革を優先させるべきだ と考えたのです。
論争の結果、征韓論は敗れ、国内の近代化が先だという結論になりました。
征韓論を主張していた西郷・板垣は政府を去り、それぞれの地元に帰っていきました。
征韓論は敗れたものの、1875年の江華島事件をきっかけに、日本は朝鮮を開国させる…
征韓論は敗れたものの、西郷たちが政府を去ったすぐ後の1875年、日本は 江華島事件 を起こします。
朝鮮の江華島という島のすぐ近くで日本が朝鮮を挑発し、朝鮮軍が砲撃してきたことをきっかけに戦闘に発展した事件です。
翌年、日本は朝鮮と 日朝修好条規 という条約を結びましたが、これは 朝鮮にとって不利な不平等条約 でした。
結局、日本は朝鮮を強引に開国させたことになります。
西郷隆盛・板垣退助らの征韓論は敗れたものの、
1875年の江華島事件をきっかけに、日本は武力によって朝鮮を開国させました。
1876年に結ばれた日朝修好条規は、朝鮮側に不利な不平等条約だったこともおさえておきましょう。
明治時代4のポイント2は、「征韓論」です。
まずはこちらを見てください。