5分でわかる!日露戦争とポーツマス条約
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この動画の要点まとめ
ポイント
ロシアに対抗するため、日本とイギリスが日英同盟を結ぶ
1902年、日本とイギリスは 日英同盟 を結びます。
当時ロシアと対立していたイギリスは、ロシアが東アジア(朝鮮や中国)に勢力を伸ばしていることに危機感を抱いていました。
そこで、イギリスは 日本と協力してロシアをおさえよう と考えたのです。
こちらを見てください。
これは 日英同盟の風刺画 です。
4人の人物が描かれているのがわかりますね。
左から順に ロシア・日本・イギリス・アメリカ をあらわしています。
絵の左端で、ロシアが栗を焼いていますね。
栗にたとえられているのは 朝鮮 です。
ロシアが朝鮮に進出していた様子 が描かれています。
絵の右側では、ロシアに対して イギリスとアメリカが日本をけしかけています。
イギリスは 日本をロシアと戦わせ、ライバルであるロシアの力を弱めようとしていた のです。
朝鮮をめぐる日本とロシアの対立はどんどん強まっていきます。
1904年 日露戦争が始まる
1904年、ついに日本とロシアの間で 日露戦争 が始まります。
日清戦争と同じく、朝鮮の支配を巡る対立から戦争が始まったのです。
大方の予想を裏切り、日本は大国ロシア相手に善戦しました。
戦いを有利に進めた日本でしたが、多くの戦死者を出し、お金や物資が不足すると、戦争を続けることが困難になります。
一方ロシアでは、戦争に反対する民衆が革命運動を起こすなど、日本との和平を求める声が高まります。
こうした状況の中、 アメリカが仲介役として両国に停戦を持ちかけたのです。
1905年 アメリカの仲介でポーツマス条約が結ばれる
1905年、日露戦争の講和条約である ポーツマス条約 が、アメリカの仲介で結ばれます。
ちなみに「ポーツマス」はアメリカの都市の名前です。
ポーツマス条約で、日本はロシアから樺太の南半分などを譲り受けました。
しかし、下関条約のように 賠償金を得ることは出来ませんでした。
日清戦争よりも多くの犠牲者を出し、多くのお金や物資を費やしたのに、賠償金を得られない。
日本国民からは不満の声が上がり、デモ隊の一部が役所や交番を破壊したり、放火したりする事件も発生しました。
1902年に日英同盟が結ばれ、1904年に日露戦争が始まります。
1905年にはアメリカの仲介でポーツマス条約が結ばれましたが、日本は賠償金を得られませんでした。
日露戦争前後のできごとを整理して覚えましょう。
明治時代8のポイント2は、「日英同盟と日露戦争」です。
日本がイギリスと同盟を結び、ロシアとの戦争へつきすすんでいく流れを学習します。