5分でわかる!ミッドウェー海戦での敗北
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この動画の要点まとめ
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1942年 ミッドウェー海戦に敗北! 敗北が続く日本...
1942年、日本は ミッドウェー海戦 でアメリカに敗北します。
ハワイの北西に浮かぶミッドウェー諸島での戦いで、日本はアメリカに大敗し、多くの兵や空母を失いました。
この敗戦をきっかけに 戦局はアメリカ側に傾きます。
ミッドウェー海戦以降 各地で日本軍の敗戦が続いた のです。
日本軍の敗戦は、国内では「 転戦 」と伝えられました。
転戦とは「戦場を別の場所に移すこと」という意味です。
日本の政府や新聞は、国民の士気を下げないように、「負けた」という表現を使わなかったのです。
ただ、新聞の報道はどうあれ、実際に日本軍は敗戦を続けていました。
1944年 サイパン島をアメリカ軍に占領され、ついに本土空襲が本格化...
1944年には サイパン島 がアメリカ軍に占領されます。
サイパン島陥落を受け、東条英機は 責任を取って総理大臣を辞職 しました。
いったいなぜ、サイパン島を占領されたことが、総理大臣をやめなければならないほどの責任につながるのでしょうか?
実は、サイパン島は アメリカ本土よりもずっと日本に近いところにある のです。
現在でも、日本からニューヨークに行こうと思えば10時間くらいかかりますが、サイパン島には数時間で到着できます。
サイパン島を占領したことで、アメリカ軍は 日本のすぐ近くから戦闘機で発進し、日本本土を直接攻撃できる ようになったのです。
こうして、アメリカ軍による 日本への本土空襲 が始まりました。
太平洋戦争序盤は有利だった日本ですが、ここにきて戦況は一気に悪化します。
戦時下の国民生活 配給制と集団疎開
続いて 戦時下の国民生活 についてみていきます。
戦争が続く中、日本国内では多くの人が苦しい生活を強いられました。
生活に必要な食料品や衣類などは 配給制 でまかなわれました。
米・砂糖などの食料品と衣類などを 国が管理し、定期的に国民に配る という制度です。
多くの人やモノを戦争のために使っていたため、 国が管理しなければならないほど物資が乏しかった のです。
また、都市部に住む子どもたちの 集団疎開 ( 学童疎開 )が行われました。
先ほど 本土空襲が始まった という話をしましたよね。
空襲では 東京や大阪などの大都市 が主な攻撃目標とされたため、大人たちは せめて子どもたちだけでも逃がそう と考えたのです。
主に都市部の子どもたちが、集団で地方の山間部などに避難することを集団疎開といいます。
戦争中の日本では「 欲しがりません 勝つまでは 」という標語が有名になりました。
「生活は苦しいけど、みんなで我慢しよう」というスローガンです。
こうしたスローガンからわかるように、多くの人々が苦しい生活に耐えていたのです。
次のポイントでは、日本がついに降伏し、第二次世界大戦が終結する様子を学習します。
昭和時代5のポイント2は、「戦局の悪化と戦時下の国民生活」です。
1941年に始まった 太平洋戦争 では、序盤こそ 日本が優勢 だったものの、次第に物量で勝る アメリカ が戦局を逆転させていきます。
日本が劣勢に立たされる様子と、当時の国民生活について学習します。